Evolution through innovation YUDAI MARUYAMA

YUDAI MARUYAMA
今回は『大豆田とわ子と三人の元夫』のエンディング映像でも監督を務めるなど多岐に渡って活躍を見せる丸山雄大くんにインタビューを敢行。
一緒に仕事したり、遊んだりと、付き合いは長いけど結構知らない事あるな〜って事で根掘り葉掘り色んな事聞いてみました。
◇Yudaiくんのことをみんなに知ってもらいたいので、ざっくりプロフィールを教えてくれるかな?

新潟県の見附市出身だけど、生まれは栃木県足利市です。
映像をやり始めた経緯としては…映画好きの親の影響で、小学校の低学年から映画を観てました。それで小学校の中学年には、親が買ったホームビデオカメラが家にあって、それを自分で回したくなっちゃって。それでカメラを持ったの始まりで、それからずっと映像のことを考えてるって感じですかね。
◇地方の出身だと、映画をディグるのも難しかったと思うんだけど。今みたいにサブスクの動画配信サービスもないと、地元のTSUTAYAとかに置いてあるものを観てたの?

『金曜ロードショー』『ゴールデン洋画劇場』とかテレビでやってる映画を録画したのが家に大量にあったんですよね。有名どころの映画は大体放送されるから、その辺のものはなんでも揃ってました。『インデペンデンス・デイ』『ミッション:インポッシブル』とかが好きでしたね。だから小遣いを映画にかけてたとかではなくて。TSUTAYAではCDを買ったり、借りたりしてました。
◇自分で撮った初期の作品ってどんなものだった?

自分の幼馴染がいたんですけど、そいつも映画が好きで。一緒にゾンビ映画を観てて、それで俺らでゾンビ映画作ろうっていうノリになって。というのも二人ともゲームも好きで、『バイオハザード』とかのパロディーを作ろうって。それでトイザらスでゾンビのマスクとかを買って、ゾンビ映画を作ったのが最初です。最終的にそのシリーズは十数本あるんですけど、人に見せれないような変な作品です(笑)まぁ、そんなことを中3までやってました。部活の合間とかで。だけど、あの頃は映像監督になりたいとかじゃなく、ただ面白いから撮ってたって感じです。
◇でも、早い段階から今に繋がることをやってたんだね。

そうっすね。見返すと面白い気づきもあって。撮り始めた小学生の頃の映像は、手持ちで回してたんで、ブレブレの映像なんです。それから特に映像の勉強をしたわけではないのに、中学校に入るとカメラをFIXしてたり、パンとかもやってて。なんか基礎的なことが身についてました(笑)
◇キャリアとして映像を意識するようになったのはいつ頃から?

作品を一緒に作ってたやつとは別の高校に行ったんで、そこで映像制作がなくなっちゃって。でも相変わらず映像は好きでした。で、高2とかで進路の話になってきて、「映像やりたいな」と思って。それで映像の勉強をできるとこを探しました。それに海外に行きたかったので、長岡にいる外国人と遊んだりして、とりあえず英語を学ぼうと思ってました。といってもストリートの英語なんですけど(笑)その頃は英語を話して海外の文化を学びたいって感じでした。
それで渡米することになって、向こうの大学に入ったんですけど、最初の1~2年は自分の英語が映像の授業を取れるレベルに達してなかったので、英語とか歴史の勉強しかできなくて。その後、映像の授業を取れるようになりましたけど、大学生活の前半は映像の勉強なしでした。

◇それは映像とか写真に強い大学だったの?

シティカレッジっていう、日本でいう短大みたいな学校で4年制の大学ではないですけど、映像と音楽には強い学校でした。サンタバーバラっていう街に学校があって、そこはハリウッドスターが別荘を建てたり、サンタバーバラ国際映画祭っていう映画祭が開催されるくらいで、ハリウッドから映像作家が住み着く場所だったので。自分は最初から映像を勉強できるもんだと思ってその学校に入ったんですけど、はじめは基礎の語学とかしか学べないっていう(笑)
◇勉強以外でそこを選んだ理由はある?

高校生のときに音楽のMVもよく観るようになったんですけど、西海岸のG-Funkにハマって。それで映像の勉強もしたいし、LAも近いしって感じです(笑)
学校が本格的にスタートする前の語学学校時代に、コンプトンにも行きました。近くだったし、見たいなと思って(笑) 
◇そのとき見たコンプトンはどうだった?(笑) 

そこへ向かう電車に乗ってる時点から、アジア人は自分ひとりだけで、ほかは黒人しかいなくて…。今だったら絶対行こうと思わないですね(笑)当時、好奇心の方が強かったから怖いとは思わなかったですけど、『ボーイズ'ン・ザ・フッド (原題:Boyz n the Hood) 』とか『ポケットいっぱいの涙 (原題:Menace II Society)』の映画で観てたフッドの緊張感がありました(笑)
◇アメリカ時代のキツかったな、みたいな思い出はある?

めっちゃあるっすね(笑)最初あんまり日本人とはつるまないようにしてたんですけど、そん時が1番辛かったかもしれないです。18歳で何にも知らないまま向こうに行って、はじめはホームステイに入れられたんですけど、そのホームステイ先のヤツがクソで。そいつは基本的に家に居ない、ギャンブル好きのおっさんだったです。ギャンブルに行ってて、家にはろくに居ないみたいな。当時の俺は18だったんで、ご飯もどうするか分かんないし、家にもご飯がないって状況で。とりあえずシリアルだけ買って、それしか食ってなくて(笑)
それで体調も崩しちゃって、学校に「住む場所を変えてくれ」って文句を言って。そしたら学生寮に入れられちゃって。そこが結構なパーティハウスで、そこで色々経験させてもらいました(笑)
その時は…、まぁ、辛かったというか、何も分からなかったから、流されてたっす。楽しかったですけど、今思うとブチ込まれた感があるというか(笑)
その時の経験が、今映像を撮る上でタメになってるとも思うんですけど。やっぱり、自分から行動しないと何も変わらないじゃないですか。とりあえず、自分の周りのことは全部自分でやるみたいな。
◇結局どのくらいアメリカにいたの?

サンタバーバラに4年と、卒業後はLA近郊で半年間インターンをやってました。
◇インターン先は映像の制作会社? 

いや、そういうところじゃなくて。akompliceっていうアメリカのストリートウェアブランドです。ちょうどサンタバーバラに店があったんですよ。
〈ピンポーン♪〉
あっ宅急便すね。 外のボックスに置いてくと思うんで、無視します(笑)

大学4年のときに、そのブランドのリリースパーティが店舗であって、映像を無断で撮ったんですよ。そのときCANON 7Dを買ったばっかりで、使いたくて。スローモーションを撮る練習がてらパーティーの映像を撮影して、繋いだものを勝手にYouTubeにアップしたら、そのブランドの人が気に入ってくれたみたいで、「一緒に働こう」って連絡が来たんです。そんな流れで、そこでインターンしてました。HIPHOPカルチャーに通じてるブランドでもあったんですけど、そこで半年ぐらい働きましたね。特に映像を作ってたとかでもなくて、ブツ撮りとかやってたんですけど。ほぼノーギャラで(笑)
◇寝泊まりはどうしてた?

そのブランドの人たちが借りた家があって、そこをとりあえず使ってもいいよって。朝起きて、「やれ」って言われたことを片付けて、あとは自由みたいな生活でした。お金はもらえなかったですけど、めちゃめちゃ人脈が広がりましたね。LAのファッション界隈の人たちもそうだし、この人たちの紹介でBlu & Exileも撮らしてもらったので。
あとJoey Bada$$が売れる前に、MVを撮るかっていう話が来たりとかあったんですけど。その時Joeyはシカゴに住んでて、「ユウダイ自腹でシカゴ行って撮って来いよ」って言われたんですけど(笑) 「流石に金が無いから無理だ」って断っちゃったんですよね。今思えば絶対やっときゃよかったなって。やっときゃ人生変わってたなって(笑)  そういう事がいっぱいありましたね。向こうで一眼レフの映像を自分で撮れるってことに気づいて。ディレクションとかも全部自分でできるなって。そうするとMV作るのが面白くなりました。
◇俺もCANON 5Dで「一眼で映像撮れるんだー!」って思ったもん。

そうっすよね。ワンオペで全部できちゃうんだってなりますよね。
◇さっき高校の頃にHIPHOPにハマったって話してくれたけど、それは友だちとか先輩の影響?

高1のときに市の交換留学プログラムに参加してアメリカに3週間位行ってたんすよ。それまではメロコアとかパンクを聴いてて、ラップはLIMP BIZKITとかミクスチャーロックで知ってるくらいでした。で、向こうのホームステイ先のお兄ちゃんがHIPHOP好きで、部屋でひたすらHIPHOPをかけてて。そこで「これがホントの音楽か」「今まで聴いてた音楽は本物じゃなかったんだ」みたいに思っちゃって(笑)それで、そのお兄ちゃんが聴いてるような音楽をめちゃめちゃ聴くようになって。
◇それって00年代?

そう、2003~4年ですね。あのときサウスがめっちゃ流行ってて。OUTKASTとかUGKとか。
あと、まぁ高校生が聴くようなもんなんで、ディプセット(THE DIPLOMATS)とかG-UNITも聴いてました。それがHIPHOPを好きになったきっかけですね。アメリカ行く前はギリギリCYPRESS HILLとかっすね。
◇渡米前もやっぱり西だったんだね(笑)

アメリカに5年くらいいて、そこから帰国を決断する理由はなんだったの?

LAに住んでて、向こうの人に「やっぱ東京ってすごいよな」ってよく話されるんですけど、自分は東京のことあんまり知らなかったんで、全然それに答えられなくて。あと、向こうに残る選択肢もあったけど、レストランで働かなきゃいけないみたいな縛りもあったんで、「東京に行こう」ってなりました。それが24歳の時です。
◇でも帰国していきなり映像の仕事ができるってわけでもなかった?

LA時代の知り合いのツテでカメラマンの人に会ったりして、「どうしたらいいですかね?」って話したら、「日本の現場を知らないなら、とりあえず現場に行きなよ」って言われて。
それで都内のスタジオを紹介されて、面接受けて、そこで働くことになりました。半年くらいで「現場ってこういうことか」みたいには学べたんですけど、その頃合いで辞めました。そこから、バイトしながら自分の作品を作ってたら、HIPHOPの仕事が増えたって感じですね。
YUDAI MARUYAMA
◇俺がYudaiくんに出会ったのはその頃だよね? ちょうどSHADOW SHOGUNの「ゲリラ」を撮ってた頃だから。

そうっすね。2013年とかですね。共通の知り合いの案件の現場で出会って。お互いCANON 7Dとか5Dでしたよね。
◇仲良くなるのはすぐだったな〜(笑)Yudaiくんは英語を使う現場だと、めちゃめちゃ口が悪くなるのが面白くてね(笑)

自分はカリフォルニアにいたんで、それは周りの友達の影響っすね。白人のスケーターとかの友達が多くて、そいつらから英語を学んでるから、基本的に口が悪いっていうか、チャラいんですよね(笑) だから英語脳になると、人が変わるんです。
◇(笑)ちなみに、あの頃の仕事量はどんな感じ?

その頃は単発の1発3~5万円とかの仕事で食いつなぐみたいな(笑)。バイトもしながらで。
◇そうか〜、お互いファッションの案件とかやりながらだったね。

ですね。当時はまだ映像が出始めで、写真の需要がまだ高い時期で。“ビデオグラファー”っていう単語もなかったくらい、誰も映像をあんまり気にしてなかったですね。
◇映画とかMVとかはあったけど、それ以外の映像の仕事はちょっとした隙間産業みたいな感じだったよね。

そうですね。あんまりなかったですね。当時は広告も写真だったし、SNSも今ほど盛り上がってなかったんで。案件としては、YouTube用の動画を作って欲しいとかだったんですけど、YouTube自体もそこまで力を持ってなくて。けど、自分がアメリカに住んでた2011年の頃から、「映像の時代は来る」みたいには言われてて。そこを信じてやってた部分はありました。「これからの時代は、スチールと映像の撮影と編集はできた方がいい」みたいに学校でも言われてたくらいなんで、それができるようになって本当によかったです。
◇それから徐々にだけど仕事は増えてくるじゃん。食いつないでた案件から自分の好きなHIPHOPとか音楽の仕事がどんどんと増えて。そうなった時に、結構なんでもやってた? それとも、案件を選んでた?

仕事が増え始めた頃は、なんでもやってましたね。それこそ変な企業案件の方がギャラが良かったりしたんで(笑)。でも周りには「MVしたい」とは話してたんで、それでMVの案件が来るようになりました。ちょっと時間はかかったんですけど。
yudai
◇そこからYudaiくんはMVとかCMをどんどんやるようになって。俺的にはYudaiくんのストーリー性のあるMVが結構好きで。だから、ただ音楽の映像をビジュアルで見せてくより、ストーリーがある方が好きなのかな?って思ってて。楽曲にもよるんだろうけど、元々映画を撮りたかった要素も入っているんだろうなって。そのあたりはどう思う?

何かを撮る上で自分が1番気をつけてるのは、フレームにストーリーを持たせることで。基本的に、ワンカット、ワンカットにストーリーがあるものしか撮りたくなくて。それが繋がってるから、ストーリーのある映像になってるんじゃないか、と思います。ラップのビデオとかでもストーリーのあるものにしたいんで。
◇YudaiくんはHIPHOPもそうだけど、バンドもとかも撮ってて、その中で一個一個の作品に物語があって素敵だなぁと。その物語の中でも、男女のものが多いかなって思うんだけど。観ててホッコリするっていうか。それはこだわりがあったりする?

こだわってるというか、そういう物語が生まれやすいんですかね。基本的には1回やったことは、もう1度やりたくなくて。同じ場所とか同じ人を使って撮りたくないし。それで試行錯誤していった結果がそうなったのかもしれないですね。いろんな組み合わせっていうか。男女なのか、男ひとりなのか、とか。曲を聴いてから考えて、いろいろ動いてるんで、その結果がそうなってるのかもしれないです。基本的には新しいことをどんどんやりたいんですけど。
◇個人的にはROTH BART BARONの「極彩 | I G L (S)」のMVは、カッコいいなって思ってて。動かない、静の映像だなと。

アレは狙ったんです。DJI Roninの出始めの頃に個人で持ってて、それでラップのビデオを作ったら、結構注目されて、仕事も来るようになって。だから、同じような映像の作りを求められて、サイクルで同じようなのを3年くらい作ってたんですけど、ガラッと変えたくなって。それでほぼ三脚しか使わないようなのを撮ろうってなりました。1週間くらい山にこもって、いろんな素材を撮って作ったビデオで、こうなりたいって自分を表現したものです。「俺だってこういうのできんだぞ」って(笑) 
◇そうだよね。Yudaiくんの作品はRoninを使った映像の印象が強いけど、俺はYudaiくんが切りとる画が好きで観てたから「やられたな」って思った。あとはShohei Takagiくんの「ミッドナイト・ランデヴー」もすごくいいなって。さりげないカメオにいろいろ出てきたりっていうのも面白いし。

あれは芳賀陽平君と一緒に動いたんですけど、いろんな映画のオマージュですね。いろんな要素が入ってて、ただループしていくっていう。芳賀君と一緒に挑戦してみました。
◇松嵜翔平くんとか親交のある役者が出てたりとか、なんか物語があるから、観てて面白いなって。あとは…、言い出したらキリがないんだけど。あと1つだけ挙げさせて。田我流の「Changes」も、「コレはいいな」ってすげぇ思って。出てくる役者さんもパンチあるし。あれは田我流の曲を聴いて、ストーリーを膨らませた感じ?

「Changes」も芳賀君と一緒に作った映像です。「Changes」は山梨から上京する若者の話なんですけど、自分に置き換えた部分もあるし、もちろん田さんからインスパイアをもらって、一緒に作った感もあって。だけど、基本的には田さんが行動してる範囲のものしかあの中にはないんです。田さんが行ってる喫茶店とか、田さんが散歩してる道とか。EVISBEATSの「ゆれる」のMVをもっとシネマティックに切り取った感じですかね。
◇最近YudaiくんのMVを観てて、ロケ地が自然が多いなって思ってたんだけど、その理由ってあったりするのかな?

去年から「東京にいなくても仕事できないか?」とか「人間はやっぱり自然にいたいよね」って感じになって。それで自然で撮りたいなと。実はHOMECOMINGS、LUCKY TAPES、ROTH BART BARON、VaVaのMVは全部同じ場所、新潟の妙高ってところで撮ってて。上村岳君がそこでAirbnbを持ってるんですけど、すごく協力的なんです。その人はずっと自然で暮らしてる人で、自分とは感覚がちょっと違うからいいバランスで物が作れるんです。「いい映像を作りたい」という根っこの部分は同じなんで。それで、辿りついたのがああいう自然を撮るってことじゃないか、と思います。それ以前も田我流とかでは自然を撮ってたんですけど、それとは別で、最近のものはこの新潟の流れです。
◇自分の地元に帰ってきてるのがいいよね。

そうっすね。地方からムーブメントを起こそうみたいな感じで、映像を作ってて。もう5、6作はやってます。最近は新潟のチームでウェブサイトとかも作って、それを発表してます。
https://myokopond.com/work
◇これは俺が個人的に聞きたいことだけど、Yudaiくんの作品で好きなのは自然光。もちろん作られた照明もあるとは思うんだけど、ライティングでこだわってることはある?

基本的には、ライトを使わない自然光で撮るのを目指してて。陰影というか、ストーリーの生まれそうな瞬間を日常からずっと見てて、それを仕事につなげてるって感じです。そこは常に意識してて、日常でも何かストーリーを探してますね。
◇カッコいいす(笑)さっきのロケ地の自然の話も、普段から映像のことを考えてアンテナを張ってるからこそ、ココで撮ってみたいってなるのかもね。

そうっすね。毎日ロケハンみたいな感じなんで(笑)  とりあえず何か新しいものを探してます。違うルートで帰宅したり、クライアントに会いにいくのも違うルートで行ったりとか。歩いてるとき、電車で移動してるときが1番発見がありますね。
◇今となっては大活躍のYudaiくんとも、以前は本当に大変なメンタルが鍛えられる現場で一緒になることが多かったよね。

そうっすね。あんまり言えないですけど、本当は倍以上の人数が必要な現場で、ひとりで2~3人分くらいの仕事量をこなすっていうか(笑)

◇それを経ての今です。でも映像でも写真の現場でもYudaiくんと同じ現場に入れると楽しいもんね。

ユウスケさんと知り合ったのが東京で映像をやり始めた頃で、自分にとってはルーツというか。最近またG-SHOCKの撮影でご一緒できたのが嬉しいですね。その現場では自分が監督だったんですけど。
◇監督姿がカッコいいんすよ。「カット!」ていうのがカッコよくて(笑)   あとYudaiくん自身の強みって、自分ではどう思う?

自分は論理的じゃなくて、結構、感覚的なんです。日本の映像監督は論理的な方が多いと思うけど、自分は見てきたものの断片を自分の感覚で動かしてきたので、そこは違うのかなって。アメリカでは映像を教えてくれなかったですもん。カメラを渡されて、とりあえず考えて撮ってこいみたいな感じで。それで撮ってきたものを毎週発表させる。だから自分で考え抜く必要がありました。授業の中で批評し合って、「ここダメだったな」と気づくみたいな。それは教科書に載ってるものじゃないんで。

◇だからオリジナリティに溢てるものが生まれるんだね。

そうですね。そうやって競い合ってきたから、今も同じ考えというか。見たら“いいもの”ってのが大体判断できます。
◇現場でもYudaiくんは臨機応変だよね。「こうやろう」っていうのがある状態で現場に来ても、後から「こっちの方がいいな」って変えたり。そこは現場叩き上げの人たちが持ってる強みだよね。

そうっすね。自分がアメリカにいた15年くらい前は、現場にアジア人がほぼ自分だけだったんで、基本的に自分の意見とか聞いてくれない時代で。だからこそ、自分で声を出さないと何も生まれなくて。自分で作品を作って、それを見せてはじめて会話になるというか。1発かませば、そこから「What’s up?」って来てくれますけど、それまでは無視みたいな感じでしたよね(笑)

◇海外スポーツとかでもそういう話があるよね。結果を出したら、ようやくパスが来るみたいな。だから若い頃にそういう環境に身を置けたっていうのが、逆によかったよね。

それがデカかったですね。

◇今からタフな現場を経験するのはしんどいけど、若い頃はそれがタフに感じないもんね。そこがYudaiくんの礎を作ってる感じがするな。自分の感覚を信じてるところが、あまり日本的でないっていうか。人の目を気にしたり、ビビっちゃうみたいなことがYudaiくんはあんまりなくて、「なんでダメなの?」くらいな感じでしょ(笑)。

基本的にはそうっすね。でも、自分は意見をバシバシ言う感じではないですけど、一貫した意思を持つようにしてます。HIPHOPの映像撮ってて、「やっぱりバックグラウンドって大事だな」て思います。というのも、自分のバックグラウンドにないものは撮れないじゃないですか。嘘みたいになるんで。自分もストリートとかカルチャーを通ってきてるから、今はこうなってると思うんで。だけど、日本のエンタメ業界はあんまりそこを重要視しないというか。バックグラウンドを持って、カルチャーを理解してやってる人もあんまりいないなって思ってて。自分はそこを攻めてきたいです。
◇今後、Yudaiくんがやっていきたいのはどんなこと?俺的にはYudaiくんが作る映画を観たいって、ずっと思ってて。

今後は本物の演者を演出したいっすね。それが次のステップなのかなと。それで映像を残してって、自分の映画につなげたいですね。自分で作品を残していかないとやっぱり。MVやってるのもいいんですけど、何か新しいことをしたいんで、次は映画かなと。今はこんなご時世ですけど、海外でも撮りたかったんで。

◇海外アーティストMVも撮りたいって、ずっと言ってたよね。

今でも海外に住みたいんで、何かきっかけがあれば向こうに住めるなって。だから、自分が思う新しいことに挑戦していけば、思うようにはなるのかなとも考えてて。今はとりあえず、自分の映画を作って世界に発信して行きたいです。

◇やってくれると思いますよ、Yudaiくんは!
YUDAI MARUYAMA
PROFILE
丸山雄大 | Yudai Maruyama
1987年生まれ 新潟県出身。高校卒業後、アメリカに渡る。
サンタバーバラシティーカレッジ映画学科卒業。2014年、フリーランスとして活動を開始。
ミュージックビデオ、ドキュメンタリー、コマーシャルなどの様々なコンテンツで活動中。
https://yudaimaruyama.com/biography/
Direction & Interview : Yusuke Oishi
Text : Yasushi Kishimoto